自然災害と原発事故

報道に見る東電の対応は当事者能力を疑わせるものがある。しかし、この間の事態の推移を見ていると、どうも東電をあげつらうだけでは済まされそうにない。わが粗雑な知識と、テレビやネットのつまみ食い情報をもとに、もうろく頭でこう考えた。

複数の原子炉が同時並行で事故状態に陥っている原因として、いま見えてきているのは炉心や使用済み燃料棒を冷却するための、非常用(あるいは予備用)の電源が「津波」で使えなくなったということ。一方、地震による構造的な被害はなかったようだ。電源が正常ならおそらくこの大地震に対してまことに優れた耐震性を示したとして賞賛されたかもしれない。

(2011/03/24 訂正 福島第1原発は1号機のみGE製、あとはGEと東芝の共同、あるいは日立or東芝の純国産であった。資料の「主契約者」参照)。ただし、40年前に建造された原子炉本体の設計はGEによるものだった。 GEのジェフリー・イメルト会長は、恐るべき災害であり、徹底した調査が必要だが、今回の日本の事故について論ずるのは時期尚とコメントしている。営繕とその後の運用面には日本の技術が多分に入っているにせよ、このことは知っておく必要がある。おっと、脱線。

ここで問題となるのは、非常用電源が津波に対してどの程度の条件を考慮して設計・製造・設置されたかであり、その条件を満たしているのなら、その条件が、それまでの人類の経験からして妥当なものだったか、ということになる。地震に対して大丈夫だったのは、その条件が正しく設定され、現実がその条件を十分に満たしていたからであり、津波に対して弱かったのは、その条件の設定に不備があったか、あるいは、十分であったのに現実がそれを満たしていなかったから。今回の原発事故のケースは、そもそも経験不足から条件設定に遺漏があったと見るのが自然だろう。いくら人間が経験と理論で完璧に武装したと自負してみても、自然の側からすれば抜け穴だらけのザル籠のように見透かせる。自然災害が想定範囲なら、それに耐えるべく設計したものが対応できなかったら、それは責められるべきこと。しかし、人類の予想を超えていれば、責める刃は自分につきつけられる。そして、自然は、長い時間経過で見れば必ず人間の想定を凌駕する。

原子力を推進する側は素人を相手にむやみに安全性ばかりを強調する嫌いがある。われら素人側も日常生活において、原子力に大きく依存する電力という不可欠の恩恵を享受しながら、その一方で、それを提供してくれている相手の内実を正視してこなかった。原子力という危機をはらむエネルギー源を利用するなら、その危機の発現要因の一つである自然災害に遭遇することは不可避。そして自然はつねに経験を超えた現象を人に提示する。それにもかかわらず人類が原子力利用を採るのならば、「いくばくかの確率で原発事故は起きる」ことを覚悟する必要がある。

これまでの人類の浪費のつけとして地球温暖化が突きつけられた。それを緩和する術の一つが原子力であることは間違いない。これを採らないとするなら、高コストを覚悟で、自然エネルギー(水力、風力、太陽光、地熱など)の利用で人類に必要な電力を賄う技術を追究する一方、自然エネルギーで賄えるレベルまでわれわれの消費するエネルギーを削減するしかない。後者は、人類がいまだ経験のない生活レベルの低下をまねく可能性がある。いずれにしても、地球を食い散らかして、「一人の命は地球よりも重い」などどほざいていた付けが回ってきたのだと思わざるをえない。

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OJerBlog更新:2016/11/30

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